前回の記事では、武田信玄がなぜ西へ向かったのか、その背景を考えてみました。
今回は、いよいよその大軍が動き出します。元亀3年(1572年)10月、信玄は甲府を発ち、徳川家康の領国へと攻め込んでいきました。
この遠征で、信玄は連戦連勝と言っていい戦果を挙げます。なかでも12月の三方ヶ原の戦いは、家康に完膚なきまでの大敗を喫させた、信玄の生涯でも屈指の勝利でした。
ところが、ここに不思議な点があります。
これほどの勝利を収めながら、信玄は敗走する家康を追って、その居城・浜松城を攻め落とそうとはしませんでした。目の前に、勝ち切る好機があったように見えるのに、です。
なぜ信玄は、城を攻めなかったのか。
この記事では、出陣から三方ヶ原までの経過を追いながら、最後にこの「なぜ」を、私なりに考えてみたいと思います。
信玄はどう攻めたのか
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は甲府を発ちました。本隊は三万ともいわれる大軍で、遠江・三河を目指します。
ここで見落とせないのが、信玄が戦う前から手を打っていたことです。本隊が動くのと並行して、別動隊が奥三河へと侵攻していきました。この地域では、すでに山家三方衆と呼ばれる国衆たちが武田方になびいていたと伝わります。つまり信玄は、力でねじ伏せる前に、調略によって足場を築いていたのです。戦いは、始まる前から半ば動き出していたとも言えます。
進軍そのものも、力押し一辺倒ではありませんでした。
象徴的なのが、天竜川沿いの二俣城をめぐる攻防です。この城は崖の上に築かれた堅城で、正面から攻めれば多くの犠牲が出たことでしょう。信玄が選んだのは、城が頼りにしていた水の手——崖下の川から水を汲み上げる仕組み——を断つ方法でした。水を断たれた城は、力攻めを受けることなく、やがて降伏します。
そして元亀3年(1572年)12月、信玄は三方ヶ原で家康の軍と激突します。
このとき信玄は、家康の居城・浜松城を攻めず、その北西に広がる三方ヶ原の台地へと軍を進めました。城を素通りしていく武田軍を見て、家康は城を出て戦いを挑みます。結果は、家康の大敗でした。武田軍は敗走する徳川勢を追い、家康はかろうじて浜松城へ逃げ帰ります。
ここまでを振り返ると、信玄の戦い方には一つの傾向が見えてきます。調略で足場を固め、堅城は力で攻めず搦め手から落とし、決戦も自分の有利な場所に相手を誘い出して挑む。信玄は、正面からの力押しを、できるだけ避けようとしているように見えるのです。
なぜ、城を攻めなかったのか
ここからは、史実を踏まえて私なりに考えてみたいと思います。
三方ヶ原で家康に大勝した後、信玄は浜松城を攻め落とそうとはしませんでした。敗走する家康は城に逃げ込み、城内はさぞ動揺していたはずです。一気に攻めれば、遠江を手中に収める好機だったようにも見えます。なぜ信玄は、その手を打たなかったのでしょうか。
よく言われるのは、時間と援軍の問題です。浜松城は堅城で、落とすには時間がかかる。攻めあぐねているうちに、織田信長の援軍が来てしまえば、今度は武田軍が背後を脅かされかねない。だから無理に攻めなかった——というものです。これはこれで、筋の通った説明だと思います。
ただ、もう少し違う角度からも考えてみたいのです。
前回の記事で、私は信玄について「攻め取ることと、治めることは別だと考えていたのではないか」と書きました。信玄はかつて小田原城を攻めながら落とせず、堅い城を力で攻め落とすことの難しさを、身をもって知っていました。
その信玄の目に、浜松城はどう映っていたか。
力で攻め落とそうとすれば、時間も犠牲もかさむ。たとえ落とせたとしても、その先には「治める」という、もっと厄介な仕事が待っている。信玄にとって、城という一点を奪うこと自体には、それほど価値がなかったのではないでしょうか。
ここで思い出したいのが、ここまでの信玄の戦い方です。
調略で戦う前に足場を固め、二俣城は水の手を断って落とし、三方ヶ原では家康を城の外へ誘い出した。どれも、正面から力でねじ伏せる戦い方を、できるだけ避けています。
そう考えると、城を攻めなかったことも、同じ一本の線の上にあるように見えてきます。信玄が狙っていたのは、城を落とすことではなく、家康の戦う力そのものを削ぐことだった。三方ヶ原で主力を叩いた時点で、その目的はすでに果たされていた。だとすれば、わざわざ犠牲を払って城に貼りつく理由はありません。事実、信玄は浜松には目もくれず、さらに西へと軍を進めていきました。
時間や援軍を警戒したというのも、おそらく本当でしょう。ですがその奥には、信玄という武将の一貫した思想——力で奪うことを急がない姿勢——が透けて見える気がするのです。
おわりに
三方ヶ原で家康に大勝しながら、信玄は浜松城を攻めませんでした。その背景には、時間や援軍への警戒もあったでしょう。けれど私には、その奥に、力で奪うことを急がない——調略や搦め手を選び続けた信玄らしい一貫性が見える気がします。
もちろん、これもひとつの見方にすぎません。信玄が本当のところ何を考えて城を素通りしたのか、確かめるすべはありません。それでも、勝った後に攻めなかったという一見不可解な選択の中にこそ、この武将の戦い方の本質が表れているように、私には思えるのです。
こうして信玄は、連戦連勝のまま西へと軍を進めていきます。誰の目にも、武田軍の勢いは止まらないように見えたことでしょう。
ところが、この直後に、誰も予想しなかったことが起こります。
次回は、西上作戦のその後を追いかけます。京を目指したはずの大軍は、なぜ甲斐へ引き返したのか。よろしければ、お付き合いください。


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