総大将が倒れても、なぜ武田軍は崩れなかったのか

歴史考察

前回の記事では、三方ヶ原で大勝しながら、武田信玄がなぜ浜松城を攻めなかったのかを考えてみました。城を攻めず、信玄はさらに西へと軍を進めていきます。

その勢いは、止まらないかに見えました。 ところが元亀4年(1573年)、三河の野田城を攻めている陣中で、信玄は病に倒れます。武田軍は進撃を止め、甲斐へと引き返すことになりました。そしてその撤退の途上、信玄は息を引き取ります。

ここで考えてみたいことがあります。 総大将が遠征の途中で倒れる——これは本来、軍にとって最悪の事態です。指揮の要を失えば、軍は動揺し、士気は崩れる。退却と知れば、敵は勢いづいて追ってくる。撤退戦は、ただでさえ不利なものです。

それなのに、武田軍は大きく崩れることなく、甲斐への撤退をやり遂げました。 総大将を失いながら、なぜ武田軍は崩れなかったのか。 この記事では、信玄の最期と撤退の経過を追いながら、その理由を私なりに考えてみたいと思います。

信玄、最期の戦い

三方ヶ原の勝利のあと、信玄はすぐには西へ急ぎませんでした。浜名湖の北で年を越し、年が明けた元亀4年(1573年)、武田軍がようやく向かったのは、三河の野田城です。

ここで一つ、不思議なことがあります。武田軍の進みが、妙に遅いのです。風のように攻めるはずの軍が、宿を重ねながら、じわじわとしか進まない。そして野田城そのものも、城兵五百ほどの小城にすぎませんでした。三万ともいわれる大軍が、本気で力攻めにすれば、すぐにでも落とせたはずの城です。

それでも信玄は、力で攻め落とそうとはしませんでした。 甲斐から金山掘りの技術者たちを呼び寄せ、地下に坑道を掘らせて、城の水脈を断つ。城兵は一ヶ月ほど耐えましたが、水を断たれてはどうにもなりません。野田城は、二月に降伏しました。小城を相手にしてなお力押しをしないこの姿は、前回見た信玄の戦い方と、たしかに地続きです。

ただ、この進軍の遅さには、もう一つの見方もあります。 このとき、信玄の体はすでに病に蝕まれ始めていたのではないか——そう考える研究者もいます。事実、野田城を落とした直後から、信玄はたびたび血を吐くようになります。武田軍の進撃は、ここで完全に止まりました。信玄は長篠城に入って療養しますが、病が癒える気配はありません。

そしてついに、近習や一門衆の合議によって、甲斐への撤退が決まります。 ここは見落とせないところです。総大将がもはや指揮を執れない。そんな状況でも、武田軍は重臣たちの話し合いによって、撤退という重い決断を下しています。信玄ひとりの号令で動くだけの軍ではなかったことが、ここにうかがえます。

撤退の道は、来た道を引き返すものでした。 武田軍は三河から山あいを抜けて信濃の伊那谷へ入り、三州街道を北へとたどっていきます。しかし信玄の容体は、その途上でさらに悪化しました。 元亀4年(1573年)4月12日、信玄は信濃の駒場で、ついに息を引き取ります。享年五十三。(臨終の地は駒場とされますが、近くの浪合や根羽とする説もあります)

こうして、勝ち続けた西上作戦は、終わりを迎えました。 ただ、ここで一つの問いが残ります。総大将を失ったこの撤退を、武田軍はなぜ、大きく崩すことなくやり遂げられたのでしょうか。

総大将を失っても、なぜ崩れなかったのか

ここからは、史実を踏まえて私なりに考えてみたいと思います。

くり返しになりますが、総大将が遠征の途上で倒れるというのは、軍にとって最悪の事態です。まして相手は、三方ヶ原で打ち破ったばかりの徳川家康。撤退と知れれば、追い討ちをかけてくるかもしれません。それでも武田軍は、大きく崩れることなく甲斐へ帰り着きました。

なぜか。 ひとつには、武田軍が信玄ひとりのカリスマだけで動く軍ではなかったことがあるでしょう。馬場、山県、内藤といった歴戦の宿将たちがそれぞれ軍を率い、撤退の決断も重臣たちの合議でなされた。指揮の要が倒れても、組織として動き続けられる。それは確かに、崩れなかった理由の一つだと思います。

ただ、私がもう一段おもしろいと思うのは、別のところです。 信玄は、自分の死そのものを、隠そうとしました。

甲陽軍鑑が伝えるところによれば、信玄は死に際して「自分の死を三年のあいだ隠せ」と遺言したといいます。さらに、こんな逸話も残っています。信玄は数年前から自らの病を悟り、花押——署名にあたる判——だけを記した白紙を、八百枚あまりも用意させていた。死んだあとも、その紙を使って返書を出せば、各地の大名は信玄がまだ生きていると思い込む、というのです。死後には、弟の信廉が影武者を務めたとも伝わります。

これらの逸話を、どこまで史実として受け取るかは、慎重であるべきでしょう。甲陽軍鑑は、後世に編まれた軍記物です。花押の枚数も、影武者の話も、どこまでが事実か確かめるすべはありません。

それでも、ここに見たいのは、ひとつの発想です。 総大将の死は、軍にとって最大の動揺要因になる。第1回でも触れたように、信玄はそのことを、誰よりも理解していました。だとすれば、軍を崩さない最も確実な方法は、そもそも「総大将は死んでいない」ことにしてしまうことです。死という最大の動揺要因を、情報として覆い隠してしまう。

調略で戦う前に足場を固め、相手より早く情報を握る。前回までに見てきた信玄の戦い方には、つねに情報を制することへのこだわりがありました。その信玄が、人生最後の局面で統制しようとしたのが、ほかならぬ自分の死だった。これは、いかにも信玄らしい最期に思えます。

もっとも、この情報統制は、完全には成功しませんでした。 間諜が飛び交う時代に、総大将の死をいつまでも隠し通せるものではありません。信玄の死は、三年を待たずに諸大名へ漏れていったといわれます。それでも——崩れれば全軍が瓦解しかねない、あの撤退の数十日を乗り切るには、それで十分だったのではないでしょうか。

完璧な統制ではなかった。けれど、いちばん危うい瞬間には、たしかに効いた。私には、そう思えるのです。

おわりに

総大将が倒れるという最悪の事態の中で、武田軍は崩れることなく撤退をやり遂げました。その背景には、宿将たちが支える組織の力もあったでしょう。けれど、その奥には、自分の死すら情報として隠そうとした信玄の発想——情報を制することへのこだわりが、最後まで貫かれていたように思えます。

もちろん、これもひとつの見方にすぎません。死を隠せという遺言も、八百枚の花押も、確かな史実とは言い切れない逸話です。それでも、勝ち続けた軍が総大将を失ってなお崩れなかったという事実の奥には、この武将らしい一貫した何かが、たしかに横たわっているように感じます。

こうして、武田信玄の西上作戦は終わりました。 最強と呼ばれた軍は、京を目前にすることもなく、甲斐へと引き返していきます。もし信玄があと数年、生きていたら。もし病に倒れることなく、そのまま西へ攻め上っていたら——歴史は、まるで違う形になっていたかもしれません。

ここまで三回にわたって、信玄が「なぜ西へ向かい」「どう戦い」「どう倒れたか」を追いかけてきました。 次回からは、少し趣を変えます。残された史実から離れて、「もし信玄が死ななかったら」という、あり得たかもしれない歴史を想像してみたいと思います。 よろしければ、その先までお付き合いください。

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